弱かったひとり社長が箱根駅伝を走れたたった一つの大切な事

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ひとり社長

だいぶ昔になりますが、箱根駅伝を走らせて頂きました。

師走の12月に入ると、箱根駅伝を目指して一生懸命だった当時を思い出します。

箱根駅伝を目指す学生さんも今も昔も変わらないんだろうーと。

 私の入学した大学は、箱根駅伝を優勝を狙う強豪校だったので、卒業するまでに1度箱根駅伝を走れれば悔いなしと思って、大学時代は、トレーニングだけに夢中でした。 

ほんと弱った自分が、箱根駅伝を走れたのは、箱根駅伝を走りたいという夢をあきらめない気持ちだけだったと思います。

マラソンでオリンピックを目指すエースもいれば、私みたいにギリギリに箱根駅伝に出場したい夢をみる大学生もいることを知って頂けたらと思います。

この記事を書いている箱根駅伝経験者のひとり社長の転職独立からひとり社長になるまで

当時の箱根駅伝出場校は15校 

大学に進学した目的は、箱根駅伝をはしる

と学校の先生になる為に、教職の免許をとる事が大きな目的でした。

大学の勉強の両立と箱根駅伝練習で普通の大学生の大学生活とは一味違う大学生活でした。

当時の私が所属していた大学は、優勝を狙うくらいの強豪校でした。

ほんと強い選手ばかりでした。今の青学みたいな感じです。

 当時の私の夢が、箱根駅伝を走って、高校の先生になるのが夢だったので、

教員免許が取れて箱根駅伝が走れる東京の大学に進学しました

箱根駅伝の人気が上がり出した時期で、高校時代記録を出した選手は、箱根駅伝が走れる大学に進学するようになっていました。

当時は、箱根駅伝に出場出来る大学は、15校だったように思います。

 単純に、10名走れるので、年間150名は、走れますが、優勝を狙うチームとなると、本当に厳しい競争でした。 ‼️

ひとり社長 当時の箱根駅伝のレベル

  自分は、入学して、これは箱根駅伝を4年間で走れるのは、無理だなぁーとまず感じました。

レベルが違い過ぎたのです。

正直、もう少し競争が激しくない、大学に入学していれば、箱根駅伝走れるのにと思った時期も

ありましたが、 箱根駅伝を走る為にわざわざ東京の大学に行かせてくれた、

両親の事を思うと、 4年間後悔ないよう全力で頑張ってみようと決意しました。💪

箱根駅伝を走るまで

大学1年生の時

一年時は、やはり16人の箱根駅伝メンバーにも入れませんでした。

優勝を狙う強豪校はやはりレベルが高いのでメンバー入りは至難の業ですが、

自分と同じ学年からは、2名が選ばれました。

彼らは、ほんとセンスもあり、努力もできる同学年からみても尊敬できる人物でした。

 大学2年生の時

コーチのアドバイス、強い選手の練習のやり方を参考に 2年には、16人メンバーに選ばれ、 区間エントリーまでいけました。

しかし、当日エントリー変更で走る事はなく、応援してくださった方に残念な気持ちを与えて終わりました。

 だいたい箱根駅伝のメンバー変更は、事前に決まっている事が多く、エントリーされるが外される事は、本人はわかっていますが、チームの

戦略上誰にも言えません。

 やはり、走れない悔しさが溢れてきました😢

 ですが入学したころから、考えたらかなりの進歩でした。何事も経験が必要で、こうすれば

もしかしたら?箱根駅伝に出場できるかも?

とコツが見えてきたのが2年生でした。😊💪

 今思いますが2年生で急激に伸びる事が出来ました。それは全てコーチのお蔭でした。

 強い選手も弱い選手もわけ隔たり無く接してくれた事に感謝してます。 

自分たちの代は、エース級の2人を除いては、どんぐりの背比べでしたが、コーチの指導力でみんな腐らずに4年間本当に一生懸命箱根駅伝に取り組みました。

 同学年の結婚式には、いつもコーチも来てくれていて、もう久しく会ってはいませんが今もコーチは活躍されてます。

 その当時のコーチを私は知ってますので、今の成績は当然の結果だと感じます。指導者は人間力が大事だと今の年齢になってよくわかります。

最後のチャンス3年生

よし!3年で箱根駅伝を走ってやる。❗️😊

というより、走れると実感できたように箱根駅伝を走る夢から現実に変わりつつありました。

 ここから、スランプが訪れます。😢

箱根駅伝メンバー選考は、12月10日前後に

行なわれ、まず16名が発表されます。

 箱根駅伝メンバーに選ばれなければ、1年が終わり、その後チームのサポートに回ります。

 かなり、虚しいです。1年の時は、当然ですが

虚しい年末を迎えてました。

三年生秋、今年も箱根駅伝走れないかぁ

と諦めないといけないくらいのスランプに落ち入りました。

😢

箱根駅伝夏合宿

箱根駅伝に出場する為には、チームで14名に入らないといけません。

 夏合宿も、なんとか 予定通りにこなせましたが、秋口に入っても、 調子が全然上がってきませんでした。やはり箱根駅伝優勝目指すチームの練習は、とてもキツイものでした。

 恥ずかしい話、 1.2年の時は、夏合宿の時、

疲労で、宿で1週間寝込んだ苦い経験があり

 3年の時は、少しセーブして全ての練習をこなす事を考えて走ってました。

箱根駅伝にメンバーギリギリの選手がメンバーに入るには本当に大変でした。

大学1年、2年の時は、夏合宿をこなせるだけの体力がなく

合宿期間中に 1週間くらい寝込んでしまいました。

3年の時に、少しコツもつかみ、夏合宿は全てこなすことに専念しようと考えました。

箱根駅伝に出たい、気持ちが強く、1・2年生の時は、気持ちだけ焦り、全体を見渡す余裕がありませんでした。

箱根駅伝の夏合宿ってそんなにきついんですが

夏休み40日あるとしたら30日が合宿でした。

当時は、北海道に合宿に行ってましたが

月1000キロは走ってました。

 朝昼夕方走れば、軽く1日50キロくらい走ってました

特に 1・2年の時は30キロ走にはなれていなく

次の日は、ほんと立てないんですよ。

 だけど毎日、練習はあり、後半にさしかかると

体が全く動かない、毎日の練習をこなすのが怖かったです。

だけど、1・2年の経験から夏合宿が箱根駅伝出場の全てだとわかり

3年からの夏への取り組みが変わりました。

秋に入り記録会でも全然走れず。

 箱根駅伝直前の合宿に参加できませんでした。

これは、箱根駅伝を走れない事を意味します。

自分は、夏合宿で全てこなしましたが、疲労が

抜けていなく、絶不調に落ちていました。😂

箱根追い込み 合宿は、20人程度に絞られていますから、合宿に行けない場合、 あとの記録会で

かなりの成績を残さないと 16人のメンバーに

さえ入れません。 もう箱根駅伝出走は絶望的でした。今考えても無理な状況でした。

 もう11月初め、 16人メンバー決定まで1カ月を切っていました。

 あー今年もまた、駄目かぁ。という心の声と

最後まで、諦めないという二つの気持ち。

大学生活最大の危機でした。

一つだけ今覚えているのは、 今与えられた練習を精一杯こなそう。 自分に負けないで最後まで

諦めないという。 開き直りみたいなぁ感じで

心が吹ききれたのが良かったのかもしれません⁉️

箱根駅伝メンバー選考 一発大逆転

どうして3年生までに箱根駅伝に出場したかったか?

やはり、箱根駅伝を走る為に、大学に進学していました。

大学卒業したら陸上は引退するつもりでした。少し打算的ですが、箱根駅伝を走った勲章は、就職活動にも有利に働きます。実際、大手企業に就職できました。⭐️

三年時箱根を走れなかったら、4年は就職活動があり、ラストチャンスと言っても過言でなかったからです。

箱根駅伝へのきっかけ?

 だけど、 コーチは、居残り組みにも、

しっかりと、箱根駅伝を見据えたメニューを

与えてくれていていて、 その当時最終学年の先輩、が先頭に立って頑張るうと、 コツコツと練習メニューをこなしました。

 自分も、開き直りではないですが、 今から

一人一人食っていこうとチャレンジャー精神が

ふつふつと、出てきました。もう失う物は何もない。だけど感触として力が戻ってきているのがわかりました。

 不思議な事に居残りメンバーから、実は3名が箱根駅伝に出場していたんです。‼️

 居残りメンバーは、最後の4年生も、最後のチャンスにかけ頑張ってました。

 1000m❌15本を3分でこなせ。

5000m❌3も  1530 1520 1500の設定をこなせ

たように記憶してます。

 そして、メンバー選考のレースに望みました。

当時、箱根駅伝メンバー選考を兼ねて、府中ロードレースにどの大学も出場していました。

秋口あんなに、不調だったはずなのに、選考レースでは、チーム8番目で走りきりました。

その当時チームは、ほんと強く、

5人くらいは、エースで故障しなければ走る

あと 山の特殊な区間は、スペシャリストが

いて、残り 3人の枠を 力が同じくらいな

20人で奪いあうという感じです。

 最終的にその3人に居残り組みが入りました。

それくらい、当時の自分のチームは10人くらいは誰が走っても遜色ないくらいチーム層が厚かったです。😅

 箱根駅伝で優勝するチームは、きっと走れる

選手以外が走っても、同じくらいの走りはできると思います。

走った選手にだけフォーカスがありますが、走れなかった選手も箱根を走った選手のように頑張っている事を知って頂けたらと思います。🤲

 箱根駅伝に選ばれる選手も選ばれない選手も

力はほぼ同じです。 今でも思いますが運が全て

かもしれません。 私はいつも思います。‼️💦

プレッシャーに負けて自滅していく選手が多いのが実情です。

ほんとに申し訳ないですが、自分は追い込み合宿に参加出来ず、

自分のペースで練習できたのがプラスに働いたのです。

ですが私と同じくらいの力の選手は、追い込み合宿で、全力を出し過ぎて、メンバー選考のライバルはみんな自滅していきました。💦

 なんとか、一回目の選考レースは、最低限の

走りができました。 次の記録会でも、自己ベストがだせ、箱根駅伝のメンバー16人に滑りこみました。

 箱根駅伝メンバーは、 最終合宿の選考レース

で決まります。12月に入り、私は、11月の頃に比べて別人でした。

 調子がグングンと上がってきていました。

 選考レースでも、チーム6番目でゴールしました。運が良かったとしかいいようがないです。

ですが、その時は、往路以外なら、どこでも走って、区間3位以内ならいける自信があるくらい調子は絶好調までに仕上がっていました。❗️

一つ学びました。ライバルは、他人ではなく自分だと、

優勝目指す箱根駅伝メンバーに選ばれるのは、本当に難しいです。

だからライバルがいい走りをしたら、焦ります。

だけど目標を定め自分がやるべき事を自分に負けないでやって

いけばチャンスが訪れる!😊

 そしてメンバー発表、 だいたいクリスマス前に発表されます。

コーチから今年は、往路に起用すると言われ人生で最高の時を迎えました。

 この時は、体は3分を刻みのには慣れていて

いつ走り出しても大丈夫でした。😊

 そして箱根駅伝当日、襷を先輩に渡し 私のやるべき事は終わりました

 今でも先輩にタスキを渡すまでの5秒間は、スローモーションで鮮明に覚えています。

 この5秒間が私の箱根駅伝の全てだったと。‼️

 人生最大の危機が最大のチャンスの時もある。

人生最大の危機でしたが、実は

人生最高の為の一つの試練だったと今では、感じます

そして運良く箱根駅伝優勝メンバーになれました。

本当に運が良かったとしかいいようがないです。

私にとって箱根駅伝に全力を注いだ4年間は

メンバーで走らせて頂いたことに感謝し、

人生どんなことも、自分を信じて最後までら諦めない事の大切さを学びました。

 そして、今なお箱根駅伝・高校駅伝で頑張っている知り合いがいるので、心から応援しています。

 おそらく、今大学で箱根駅伝目指している選手もひとりひとりのドラマがあるんだと思います。 だから箱根駅伝は見る人に感動を与えるんだと思います。 箱根駅伝ありがとう😊🎽

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この記事を書いている箱根駅伝経験者のひとり社長の転職独立からひとり社長になるまで

箱根駅伝経験者目線の箱根駅伝の楽しみ方

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